文京音頭

2009年4月1日

哀調の旋律

下町に暮らすわが家は「民謡一家」であった。父は唄、姉は踊り、母は唄に踊り、後年は津軽三味線までたしなんだ。無芸の息子は、そんな民謡好き家族をガキっぽく揶揄し、高校生ごろになるとジャズを知ったかぶったりして、民謡には無関心を装っていた。ほんとうは踊りも唄も楽器にも、なんの素養も才能もなかったのだ。
夏の夕暮れ、実家のほど近くにある児童公園を提灯や紅白で飾りたてた盆踊り会場から、太鼓の響きが暑気にねりこまれたように、ドドンがドンと開け放した窓をわずかに振動させ、盆踊りのはじまりを知らせた。太鼓の音がとどろきはじめて五分もすると、台所の母は腰が浮き加減になり、ソワソワと家事に身が入らなくなる。毎年、毎度のことだった。いそいでこしらえた、こげ茶色の衣をまだらにまとったクジラの竜田揚げを食卓にならべ終えると、額に玉の汗を浮かべながら涼しげな藍染柄の浴衣に着替え、光沢のある緋色の帯をきりりと巻いて、踊りの小道具である団扇を片手に、いそいそと足早に会場へ向かうのだった。母が出かけてからしばらくして、ちょっと醒めたふうを装って、かならず少し遅れて会場に向かう姉。母の嬉しそうな様子を、いつも鬱陶しそうに憮然とした表情で見送り、ちっとも嬉しそうじゃなかったが、ほんとうは内心嬉しいのだと確信していた。姉の踊りはかなりプロフェッショナルな域に達していて、当時そこそこ人気のあった「こすずめ会」という民謡舞踊会へ参加していた。そしてたまに、NHKの歌謡ショーの民謡踊りで出演したりしていた。
姉とは中学まで同じ学校に通っていたため、しょっちゅうできのよい姉とくらべられ、弟は劣等感が制服を着ているようなあんばいだった。今思い返せば、生徒に対する教師の「ハラスメント」といってもいいようなもの。おおいに傷つけられた。そんな中学校でおこなわれる父母会主催の演芸会にも、母はこのんで参加した。姉が在学中は何も言えなかったが、二つ年上の姉が卒業して高校へ進学、私だけが在学するようになってからは、そういう母の行動にひどく辛くあたった記憶がある。「できのわるい息子が通っているだけの学校に、なんでわざわざ嬉しそうに踊りをしにいくんだ。恥ずかしくないのか」と。そんな母も、今では歩くのがやっとの介護老人になってしまった。
親不孝な息子が盆踊り会場に向かういちばんの目的は夜店での「買い食い」。小遣いをにぎりしめ、踊りの輪の中に母や姉が形よく踊るのを見届けると、会場周辺に仮設された夜店の、串に刺さったイカ焼きをほおばる。たぶん5円か10円くらいだったろう。公園の仮設会場には、いろいろな盆踊りの音頭が、太鼓の盛大なリズムとともに流れつづけた。
下町にはたいてい、訳ありのちんぴら兄ちゃんというのがひとりやふたり居たものだ。忘れたころに姿を見せるが、しばらくするとまた消息不明になる。そして、夏の盆踊りの時節になると、どこから舞い戻ってきたのか、かならずその訳あり兄ちゃんの姿はあって、会場中央の紅白の布を巻いたやぐらの上の太鼓を、水を得たよう生き生きとたたくのだ。夏祭りだけヒーローの訳あり兄ちゃん。ある年の祭のときには、何があったのか左の二の腕あたりを、痛々しくまっ白い包帯でぐるぐる巻きにして、それでもバチを振り下ろしていた。サラシを巻いてパッチを穿き、はだかの上半身をうちふるわせる名も知らぬ兄ちゃんのその姿は、子供ながらに見ていてあやしくはかなげに思えた。母にもその兄ちゃんのことを聞けない、聞いてはいけない雰囲気があった。
昭和30年代ごろは、映画に出てくるようなヤクザとはっきり分かる風体の男が、それこそ肩で風をきって闊歩していた時代だ。いまなら、コントの中で模され笑いをとれるヤーさんそのものだ。背中には、群青色の龍や不動明王の入墨が入っていた。 銭湯にいくと、かならずそんなおっさんがひとりやふたり、湯船に浸かっていたものだ。だが、やぐらの上のさらしの兄ちゃんの背中には、墨ひとつ入ってはいなかった。やせた背中は、間がぬけたようにただ生白いだけだった。だから、訳ありだがとりあえず太鼓がうまいやくざな身持ちのチンピラ兄ちゃんを、町内会も拒絶することはできなったのかもしれない。
どんがらどんがらアドブが入りすぎて、民謡踊りのリズムをとるにはちょっとうるさすぎる、訳あり兄ちゃんのたたく太鼓が、子供の感性でもまったくなじまない音頭があった。「文京音頭」というローカルご当地音頭である。この曲が会場に流れるときだけは、訳あり兄ちゃんの太鼓をうらめしく思った。文京区に住んでいない人はまず聴いたことがないはずの、この文京区観光協会製作の音頭。お聴かせできないのが残念なくらいの名調子なのである。作詞はサトウハチロー、歌うのは春日八郎だ。音頭にしてはやけに哀愁ただよう短調な感じのメロディで、子供の心に深く、夏の季語のようにしみこんでいった。当時は、朝顔型のホーンがついた蓄音機を、酒で顔をまっ赤にした町会の役員のオッサンが、動力のゼンマイにつながったL字型のレバーをくるくる回してレコードを再生していたので、ときどきゼンマイの力が尽きかけ、メロディが間延びしはじめることがあった。春日八郎の甲高い歌声が、しだいに太く妙な鼻声になってゆくのがおもしろくて仕方なかった。
そんな、遠い昔の思い出を最近入手にした。ヤフーオークションのアラート機能をつかって、「文京音頭」のレコードが出品されるのをずっとサーチしていたのだ。手に入れたSP盤レコードは、もとは町会にでも保管されていたのか、使い古した様子の盤面で、あまり程度のよいものではなかったが、歌詞と踊りの振りが描かれたパンフレットがちゃんとついていた。
レコードに入っているのは四番までだが、歌詞カードには七番まであったのは発見。裏面はこれもサトウハチロー作詞になる「文京小唄」である。下に紹介している「文京音頭」の歌詞。三番に出てくる「白山」は現在の実家の町名だ。「祭りゃ白山」とは、紫陽花で有名な白山神社の祭のことだ。四番の終わりに出てくる「八千代町」は、当時施行された町名改編で白山に取りこまれる前の実家の町名である。この悪政によって風情ある町名がたくさん葬られてしまった。「さざれ石まで 八千代町」というのは、「ちよにやちよにさざれ石
の〜」という「君が代」の歌詞から洒落たのだろう。
レコードに収録されていない、五番以降の歌詞に出てくる町や坂の名は、私の夏祭りの記憶の中にはない。だが、五番以降の歌詞に使われた町名や史跡なども見知ったところばかりで、五番の「たより菊(聞く)坂」、「話まとめる 団子(談合)坂」などは、語呂合わせの軽妙な歌詞がたのしい。六番の「数え数えて 十七文字に なるかならぬか 芭蕉庵」という粋にまとめられた歌詞の「芭蕉庵」は、戦後復建され現在も庭園が残る「関口芭蕉庵」だ。
私のオーディオシステムのレコードプレーヤーにはSP盤が聴ける78回転機能がついているので、SP用カートリッジがあれば聴くことができる。40年ぶりに聴いた「文京音頭」は、そのかすれた盤面から出てきたとは信じられないほど、みずみずしい音で部屋を遠い思い出で満たした。針の拾うノイズは、盆踊り会場の雑踏のひといきれになった。ノリのきいた浴衣の袖の衣擦れが聴こえるようであった。

文京音頭〉(一番の色のついた歌詞部分は、二番以降一番と同様のくりかえし)


一、踊り唄えば 文京音頭ヨー
     トコみんなで ブンと来な
  若いみどりの 町なみこえて
     アーコリャコリャ
  西へひびけば 目白の森へ 北へ貫らぬきゃ 飛鳥山
     ブブン ブントキナ ブブントキナコリャ
     文京音頭で ブンと踊ろ ブンと踊ろ


二、加賀の前田は 百万石よヨー


  今じゃ御門に 名をとめる


  江戸の名残は かねやすまでと 唄にあるのも ちょとうれし


三、祭りゃ白山 小日向 氷川ヨー


  北野 今宮 根津権現


  天祖 八幡 こんにゃくえんま 桜木 天神 お富士さま


四、踊りおさめた 文京音頭ヨー


  あおぐ星空 聖橋


  肩をならべて 元町 真砂 さざれ石まで 八千代町


五、坂もうれしや 目白の坂は


  右と左の 女男坂(めおとざか)


  たより菊坂 富坂あたり 話まとめる 団子坂


六、橋の小桜 石切 江戸川


  大滝すぎれば 水稲荷


  数え数えて 十七文字に なるかならぬか 芭蕉庵


七、豊島ケ丘とは どなたがつけた


  鳩も緑の 屋根でなく


  ひとつひとつと 上がればうれし 寺は護国寺 お富士さま








更新日 2020-04-26 | 作成日 2020-04-26