食育と性教育

性の放置プレイ

1973年製作の映画「愛の嵐」(監督リリアーナ・カヴァーニ)。収容所体験者のユダヤ人の女(シャーロット・ランプリング)と、その女を収容所で陵辱していた元ナチ将校(ダーク・ボガード)が、戦後偶然再会する。そんな二人がアパートにこもって、瓶の底にわずかに残ったジャムを指ですくい舐めあいながら、倒錯的なセックスをむさぼるシーンがあった。空腹でするセックスはなんだかとても切なく悲しげで、破滅的だ。女性監督の描く「勃たないセックス描写」を初体験した。


もうひとつ、ルイス・ブニュエル監督「自由の幻想」(1974年)のワンシーン。りっぱな屋敷の重厚な長テーブル。そのまわりに整然と並んでいるのは、なぜか椅子ではなく真っ白な便器だ。着飾った男女が入ってくると、家主に挨拶しながら皆下着を膝まで下げ、白い尻を露にしてその便器に腰掛け談笑する。トイレでは、男が折畳みテーブルにトレイを置いて食事をしている。ドアをノックされると「食べてます」と不機嫌に返事する男。あたりまえのように「食」と「排泄」が逆転している映像が、トラウマのように未だに頭の中に残っている。(多少、記憶違いがあるかも)

「食」と「性」を並列にならべることはできないが、「食」を表の文化とすれば「性」は表裏一体の裏文化といえる。食欲と性欲を満たすためには、どちらも視覚・嗅覚・味覚・触覚・聴覚のすべてが動員され、それぞれを満足させるため使われる器官も近似している。


「食」は健康な身体づくりや生きることに直接つながっているから、最近では「食育」というかけ声で、身体の健康や食生活の健全さをあれこれ模索している。対する「性」は、子孫を残すため以外、生きていくことに直接つながってはいない。日本のあらゆる文化の中で「性」ほど粗末にあつかわれているジャンルはないように思える。


過去をさかのぼれば、日本の「性」のあつかいは実におおらかで、いつも日常生活の裏側にぴたりと貼り付くように存在していた。今年千年紀を迎えた「源氏物語」なんて、ほとんど「性」の営みの物語といえるものだ。


現代の日本では「性」のあつかいを面倒がってなにもケアしていないように感じる。大切な子供たちに対しても、すぐ「性教育」という歪んだ知識伝達に短絡してしまって、子作りの方法論だけが独り歩きする。日本におけるエイズの問題なども、現状はもっと深刻な状況なのだという情報もあるが、そういう話題には目をつぶっている。


YouTubeで「行きすぎ性教育に首相「こればヒドイ」」というタイトルのニュース映像(音声が出ます)が観られる(画面の▲クリック)。小泉首相の時代のものだが、この国会答弁はかなり笑え、そして悲しくなる。日本の「性の放置」のしかたは、時代が進んでもこんな程度のものだ。




イギリスの「性教育用映像」(本当かどうかは定かでない)に至っては、一組の男女の性器にそれぞれ極小カメラを取付けて、セックスの一部始終をCGなしで、ジョージ・ルーカスもびっくりの「スペクタクルセックス映像」にしてしまっている。
(注:リンク先へは、自己責任でクリックを。リンクが切れていたらごめんなさい)



性を扱うと、どうして皆こう極端に振れちゃうんだろう。現状ではインターネットというインフラは、こうした極端な反応を増長しているだけだ。逆に、ネットの匿名性を活かして、性を文化として捉えた豊かな情報の交換がもっと巧くできると思うのだが。


「性育」では語呂がわるいが、性教育とはまったく違うアプローチはできないものか。たとえば、漫画家ジョージ秋山氏が代表作「はぐれ雲」で、性について取りあげた何話かのように。

更新日 2020-04-26 | 作成日 2020-04-26