世界の起源


ちゃんとわいせつしなさい。

前回のコラムで「わいせつ裁判」についてふれた。「わいせつか芸術か」は時代を超えて話題になるネタだが、当然のことながら時代を新しくするたびに、その境界は曖昧になっていく。というか「わいせつ」という言葉は、100%主観的な情動を表現しているのであって、法律やらで基準をつくれるようなもんじゃない。辞書で定義する「わいせつ」は、おおよそ以下のようになる。


わいせつ】(名・形動)
(1)いやらしいこと。みだらなこと。また、そのさま。「—な行為」
(2)〔法〕 いたずらに性欲を興奮・刺激させ、普通人の正常な羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反すること。また、そのようなさま。


たとえば、目の前を女性がノーパンで歩いていたとしても、スカートを着けていればなにも問題はない。だが、風のいたずらでスカートがめくれてノーパンのお尻が丸出しになったら「いやらしいこと、みだらなこと」になる。んなわきゃない。お尻が見えたという「現象は」いやらしくもみだらでもない。ノーパンで歩く女性の「意思」が確認できたとき、いやらしくてみだら(すてき)なのだ。ちなみに昭和の始めごろまで、婦女子で下着(ズロース)を穿いていた人の方が少なくて、その当時はノーパンはごく普通のことだったそうだ。
(このことについてはコラム「わたしはたわし★究極のメンズショーツ」で紹介している「井上章一著『パンツが見える。—羞恥心の現代史』」に詳しく記述されている。「森繁久弥(語り)/久世光彦(文)『大遺言書』」にも、スカートの女の子が皆何も着けてなくて「スカートめくり」をしていた話が出てきます。)


下着を着けることが常識となっている時代、「尻が見える」ことではなく「わたしいまノーパンなの」と意思表示することが「いやらしいこと、みだらなこと」。つまり「わいせつ」というこの高度な情動は、そのような意思の交歓によって生まれるものなのだ。性器の写った写真や映像を見て欲情したとすれば、それは人間の本能からくる情動であってごく自然なこと。わいせつでもなんでもない。そんな写真集や映画を「能動的」に観るのは「いたずらに性欲を興奮・刺激させる」ためであって、それが「正常な羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」ことになるかどうかは個人の問題だ。「わいせつ」を陳腐な法律用語に使っては失礼だ。「いやらしくてみだら」は、そんなに簡単なもんじゃない。エログロとはまったく違う、粋で味わいのあるものだ。

古来より女性の身体は美しいものとされ、裸婦をモチーフにした数多くの絵画や彫刻の名作が存在する。ギリシャ彫刻のいくつかやミケランジェロなど、男性の肉体の美しさを表現したものもあることはあるが、女体にくらべればほんのわずかなものだ。
ところが、その美しい女性の性器まで表現した作品はほとんどない。ダビデ像のように、男性器がリアルに模された彫刻作品はあるのに。西洋でも女性器を描くことはタブーだったのかな。男性器のように露出してないから描けないということなのかもしれないが、女性器には男性器のような表情?に乏しいこともあるかも。
(左はダビデ像をパロディしたスポーツクラブのポスター)
左はその数少ない女性自身をモチーフにした代表的作品である。(クリックすると拡大できます)フランスの画家ギュスターヴ・クールベ作『世界の起源』というタイトルの1868年の作品。パリのオルセー美術館所蔵作品だ。


あくまで「美術作品」として描かれたものだが、どう見えますか。常設展示ではないらしいが、タイミングがあえばクールベの代表作「画家のアトリエ」などと一緒に見られるらしい。タイトルが洒落ています。ダビテ像の包茎の性器は微笑ましく鑑賞できる方、このクールベも微笑んで見られます?
こちらは浮世絵。私がいちばん好きな絵師、歌川国芳作の一枚。もちろんこれは艶本として描かれたものだ。浮世絵には、男根や女性器に手足がついた化け物まで描かれたものまである。最近出版されている浮世絵画集は、幸い下品なモザイク処理をされていないので、男性器・女性器の創造性豊かな表現がつぶさに見られる。

さて、猥褻と芸術の境界線というものはどこにあるのでしょう。






更新日 2020-04-26 | 作成日 2020-04-26