あの世に持っていけるもの

2008.3.1

美田は残せない

「無人島アルバム」というのがある。もちろん、無人島というグループのCDという意味ではない。「無人島で暮らさなければならなくて、一枚だけレコードを満っていけるとしたら、あなたはどのアルバムを持っていきますか?」という、好きな音楽・アーティストを知るための質問のことだ。


「地球最後の日に食べたい食べものは?」とか「死ぬ前に食べたいものは?」とかいうのと似たような質問遊び。「地球最後の日にガスや電気が通じているとは思えない」とか「死ぬ前に飯が食えるわけないだろ!」という突っ込みと同じく「無人島にコンセントはない」と突っ込むと、元も子もなくなってしまう。


死ぬときに持っていけるものって、なにかあるんだろうか。三途の川の渡し舟の、船人足に渡す渡航賃とか、閻魔様に使う袖の下とか、金は要りそうだが「カードでお願いします」なんて地獄も進んでいるかもしれない。


エクスタシーオーディオのコラムでもいろいろと書いているが、オーディオマニアは、たくさんの機器とたくさんのレコード・CDに囲まれてエクスタシーな日々を送っている。そんなマニア氏が逝ったとき、その遺品の価値や費やされた熱情が伝承されなかった奥様や子ども達にとっては、遺された機器やソフトの山は、ただの邪魔なガラクタの山としか認識されない。


かろうじて熟年離婚をまぬがれた後に逝った、幸せなマニア氏のその未亡人は「セイセイするわ」とか言いながら、廃品回収業者のスピーカーが発するガナリ声を心待ちするだろう。実はそのガラクタの山の中には、高額で取引きされるような中古機器があったり、一枚数万円もするオリジナルレコードなども含まれているはずなのだ。

■2月21日朝日新聞(東京北部版)
(長期愛読者に免じて転載おゆるしください)




2月21日付の朝日新聞東京版に「故、五味康祐さん聴いた愛した収集品/練馬区へ寄贈・公開へ」というコラム記事が載っていた。芥川賞作家 五味康祐氏は、オーディオ・レコードに造詣が深いことで、マニアには一目置かれた存在であった。その五味康祐氏のレコード・オーディオ機器・美術品を、居住していた練馬区が1300万円の費用を盛り込んで、整理・修復、一般公開をするのだという。記事を裏読みすると、どうやら寄贈された美術品の価値がクローズアップされているようで、レコード・オーディオ機器の方は、美術品を引き取ることの交換条件のような案配だ。ま、そんな穿った見方をするのは不謹慎な、りっぱな公費の使い方だとは思う。


昨年だったか、あるオーディオ雑誌に、故 高城重躬(たかじょうしげみ)氏 のオーディオ設備を買い取ってくれる人を探しているという内容の記事が出ていた。高城重躬氏は、知るひとぞ知るオーディオマニアの元祖みたいな人で、コンクリートホーンという家そのものをスピーカーの一部にしてしまったような、超弩級のスピーカーシステムや、糸ドライブレコードプレーヤーなど、当時のマニアが垂涎したオーディオ設備機器を駆使して「原音再生」を追求していた、超がつくオーディオマニアだった。

■ 高城重躬氏の著書「オーディオ100バカ」(左)
■自主制作アルバム(右/なんと自宅にスタンウエイ)





そんな高城重躬氏の設備機器をできれば残したいので、誰か買ってほしいというのだ。上記の五味康祐氏のオーディオ機器なら、愛用のタンノイのスピーカーをはじめ、すべて単品で動かせるものだから、引き取ることは簡単だ。ところが 高城重躬氏のオーディオシステムは、家そのものがオーディオシステムなのだ。つまりオーディオ機器が不動産でもあるということだ。しかもその立地が目黒ときている。たぶん不動産価格はとんでもない額になるはず。とても「はい引き受けます」みたいにはいかないシロモノなのだ。


扱いのしやすい骨董品や美術品は、金銭的・歴史的価値があるかぎり、ゴミになってしまうことはないだろう。だが、世間的・学術的な価値が見いだしにくいコレクションだとか、建造物のように不動産に付随しているものは、結局のところ廃棄物になってしまう。


オーディオにかぎらず、趣味の世界、コレクションの世界というものは、当事者がどんなに熱く情熱を持って打ちこんでいたとしても、その多くはなにも残せはしない。しょせん白日夢のごとき人生の戯事でしかないのだ。だから生きているうち、そんな世界にどっぷり浸かってエクスタシーを味わいつづけるしかない。いや、そんなエクスタシーを味わえる素敵な趣味を、現世で持っていたという「誇り」だけは、心に抱いてあの世へ旅立つことができるのだ。

更新日 2020-04-26 | 作成日 2020-04-26