続々・ネコ街ック天国

2008年11月7日

必読、極私的「昭和世代論」

10月に入って風邪引きでずっとダウンしていた。ウィルス性の風邪という診断で、流行っているそうだ。というか、風邪の9割はウィルスが原因なのだ。だから細菌には効果のある抗生物質を飲んでも、ほとんどの風邪は治らない。主治医の話によると、風邪という病気自体一般的すぎるうえ、風邪を引き起こすウィルスもたくさんあり(200種以上)、風邪のウィルスの研究は面倒なわりに脚光を浴びないから研究が進まないのだそうだ。私の場合はウィルスがお腹に入ったらしく、風邪らしい咳とか鼻水とかは出ないかわりに、37度台の熱が3週間近く引かなくて、ひどく腹が張って不調が続いた。今も不調が尾を引いている。
皆さんも身体を冷やさずに、これからのきびしい季節に向けてご自愛ください。

そんなわけで10月に入ってからのサイトの更新は、サイトの延命のために、書きためておいたページを小出しにしていた。そんな折り、すばらしいネタが届いた。5月にこのコーナーでご紹介した、友人が発行している私的メールマガジン「佃・築地界隈の猫日記」の10月号。猫たちの秋の日なたの表情は、いつもどおりにふんわりした気分を味わえるのだが、巻末に記された「極私的『昭和世代論』」があまりにもすばらしい文章なのです。というわけでここは、友人のフンドシでしのぐことにした。いや、これは多くの人に読んで欲しいと思ったわけです。


亀の子タワシと野良ネコとエロオヤジ。なんだかいい感じにゆる〜く生存している。


佃・築地界隈のネコ日記 2008年10月号



ななちゃん、昼寝中。  2008年10月2日





夏の間まったく姿が見えなかった佃のななちゃんに久しぶりにお目にかかりました。秋晴れの昼下がり、店先で熟睡中でした。
あんまり久しぶりだったものですから、迷惑とは思いつつ、頭を撫でて起こしました。
すご~く機嫌よさそうに喉をゴロゴロ鳴らして、いつものだみ声で甘えてきます。
お腹を撫でてやると、ひっくり返って「もっと」とおねだりしてきます。
でも写真を撮ろうとして手を休めると「ちぇっ」という顔をして、日陰に入ろうとします。何度かシャッターチャンスを逃した後、ようやく撮れたのが左の写真。ね、気持ちよさそうでしょ。午後の会議がなかったら、もうちょっとななちゃんと遊んでいたい昼下がりのぬくもりです。




初めてのツーショット  2008年10月3日


昨日ひさしぶりのななちゃんに出会ったと思ったら、今朝はこちらもひさしぶりの二匹に再会。


空き地のラッキー君と三谷君です。
最初ラッキーを見つけて(写真左)しばらく再会を楽しんでいたら、後方にネコの気配。振り向くと、クルマの下から三谷君が出てきました。ラッキーだけ遊んでもらっているのが面白くない様子。


のそのそと二匹の距離が近づいていくので、一瞬突っかかったりするのかと緊張しました。
でもこの二匹、仲が悪いわけではないようです。
ある程度近づくと、お互いになんとなく素知らぬ顔をして、目線を合わせないようにします。
おかげで初めてこの二匹のツーショットが撮れました。二匹とも元気でほっとひと安心。


この空き地もいつマンションに化けるのかと心配でしたが、駐車場になるらしい。しばらくは猫たちの生活空間が確保されそうで、こちらもひと安心といったところ。




パノラマスーパー   2008年10月4日

岐阜の叔父を見舞ったあとに、名鉄特急に乗ってきました。
名鉄の特急といえば先月ご紹介した真っ赤なパノラマカーが有名なんですが(下の写真 模型です)


すでにデビューから40年以上。引退間近です。


この車両に出会えるかもしれないと
密かに期待しながら、岐阜~名古屋間を遠回りのローカル線で巡りました。
残念ながら退役寸前のパノラマには行き会いませんでしたが、最新のパノラマスーパーという特急の二階席で鉄ちゃん気分を満喫できました。350円でこの眺めですからね、気分いいですよ。でも名鉄の凄いところはかなりのローカル線でもちゃんと特急を走らせていること。しかもこうした特別車が連結された列車をね。犬山から名古屋まで30分ほどのパノラマでしたが、わざわざ出かけただけのことはありました。
それに比べて帰りの新幹線の味気ないこと。列車って、速いだけが能ではないと思うんですけど。




カメラこわれた!   2008年10月12日



3年ほど使い続けてきたケ~タイのカメラが突然ピンボケになってしまった。
どうやらこの間フロアに落っことしたのがいけなかったか?docomoに持ち込んだら、
なんと無料で修理してくれるという。お店に並ぶ最新機種はずっと進化していているようだけど、使い慣れたヤツのほうがいい。直してもらうことにした。
さて、カメラが壊れていた間には「鉄道フェスティバル」があったり、波除神社のネコにまとめて4匹出くわしたりと、シャッターチャンスがいくつもあったのに撮り逃してしまった。面白くないかもしれないけど、文章だけでスケッチしておく。


12日は日比谷公園の第15回鉄道フェスティバルにいそいそお出かけ。
昨年の来場者数は10万人を超えたという人気。朝も早くから鉄ちゃんの大行列で、人気の中心は関西系の私鉄ブース。阪急・京阪という京都に乗り入れる両雄が一番人気を競っているのは阪急ファンの筆者としては嬉しい限り。ほんとなら肩を並べる人気を誇るはずの近鉄は初日に人気商品を売り切ってしまったせいか閑古鳥。社員が「電車もブースもがらがらでっせ~、なんか買うてや~」とやけ気味に声を枯らします。お目当ての模型を手に入れるのに阪急・阪神(合併してます)の列に並ぶこと1時間!H&Mも顔負けであります。
大手私鉄のブースが並ぶ中、ひときわ目立っていたのが和歌山電鉄。ほら、あの「たまスーパー駅長」が大人気の超ローカル私鉄が大手と並ぶ行列なんです。いまや日本一有名なネコ駅長かもしれませんよ、たまは。なんでも、たま駅長の経済波及効果は年間13億円に達するそうで、キャットフードと改札口改造の駅長室という待遇だけじゃ、たまに悪いよね。グッズがどんどん売れてました。たまはエライ。


ほぼ2時間あまり、行列に並び、人ごみを掻き分け、ぐったりして引き上げてきました。気付けば、両手に大荷物。「限定」「希少」というキャッチに誘われて買ってしまった模型の数々。数えたら30両ありました。とほほのオトナ買い、またやってしまった。




【特報】たま駅長にナイト称号授与!!


盛況だったフェスティバルから2週間。
和歌山県が「たまスーパー駅長」の地域振興への貢献を称えて「ナイト」の称号を授与することを決定。
「和歌山でナイトってなんやねん?」という疑問はわくけど、めでたい話やないですか?
地元では「いちご電車」「おもちゃ電車」に続いて、ついに「たま電車」が登場。車内にはたまの写真が展示され、床にはネコの足跡が描かれているとか。
(次回取材予定!!)
県知事さん、串本で獲れたカツオの一本もぶら下げて表敬訪問に行きなはれや。手ぶらはあかんで、手ぶらは。
一方で貴志駅周辺には捨て猫が増えているという
悲しい話も聞こえてきます。いかんなぁ。
我が家でも偉業を記念して、写真集第2集と和歌山電鉄名物「いちご電車」の模型を購入。
心ばかりの記念撮影です。
【さらに続報】
「なぜ和歌山なのにナイトなのか?」という疑問が解けました。たま駅長がいるのは貴志駅。貴志=騎士=ナイトだそうです。今朝のワイドショウで県知事がたまに表彰状とメダルを授与してました。ほんま、気のきかんおっさんやな。カツオ持ってこい、て言うてるやないか。メダルなんて「ネコに小判」やんか。


Caddie Cat  2008年10月18日


うちから一番近いゴルフ場はクルマで15分の若洲ゴルフリンクス。東京湾をゴミで埋め立てた所とは想像できないほど、リゾートっぽい雰囲気になっています。海の向こうにはディズニーの山が見えたりするからね。
さて、そのゴルフ場のキャディ控え室の前で朝寝しているこいつの名は「ニャン太」。
実はこのネコ日記を書き始めた最初の頃にも一度登場しているネコです。
それから2年半、同じところで同じように朝寝していたのでちょっと感激。
キャディさんたちのアイドルとして可愛がられているようです。プレーが終わって帰るときにもまだ寝転んでいました。そうだよなあ、ゴルフ場の緑を見ながらのうたた寝、代わってほしいくらいだよ。




あれ、舌出てる。  2008年10月19日


入船にある鉄砲洲稲荷神社近くの公園には地域ネコが数匹棲みついています。その中で一番年寄りっぽい感じなのがこいつ。表情も穏やかで、近づいても逃げようとはしません。
なのでこれだけアップで撮れるんですけど、よく見るとほら、舌が出っ放しなんですよ。佃のぺろちゃんとまったく同じ。ネコは歳を食うと、口元が緩んじゃうですかね?
佃のぺろちゃんは夏前から消息不明。
ひさしぶりにぺろちゃんの赤い舌を思い出して、ちょっと悲しくなりました。




ちいちゃん、散歩中。   2008年10月19日


こんちは、ちいちゃんと言います。
佃のマンションに住んでます。
ご主人はもともとネコアレルギーだったんですけど、ネコ好きの奥様が私を飼いたいとおねだりしてくれたら、許してくれました。このごろはアレルギーもなくなったみたいです、免疫できたのおかなぁ。
ご主人と奥様がいっしょに出かける時は、私はお留守番と決まっているので我慢してますけど、ご主人が一人で出かける時にはお散歩に連れてってもらえるかもしれない、と思って玄関までお見送りすることにしてます。土日ならだいたい連れてってもらえるんです。2時間ほどかけて佃公園を一周してもらいます。ご近所のワンちゃんとも何匹かは仲良しになりました。吠えなきゃ怖くないもん。
え、リードなんか付けてませんよ。だってご主人の見える範囲しか行かないもん。おかげで普通の室内ネコみたいにメタボの心配もありません。これからも見かけたら、遊んでくださいね。




ネコ日和の朝     2008年10月28日




昨夜の雨で空気がきれいになりました。
青い空が気持ちいい朝、こんな日はどこででも
ネコに出会いそうな予感がします。
いつもの居酒屋ネコは、しっかり定位置で店番
の構えです。でも目は半分つぶって居眠り状態。
黒猫三兄弟の路地にも朝ご飯中の一匹。
用心深く、さらに路地の路地へと逃げ込みます。でも朝ごはんが心残りか、振り向いて睨んでます。
これ以外にも会社に着くまでに3匹出会いましたが、初対面のヤツが多く、カメラを向けると姿を消しました。植え込みの奥にはネコだけのけものみち、車の陰にはお勝手口のキャットドア、鉢植えの裏には床下の通気口。3匹が3匹とも絶対に人間が踏み込めないルートでふっと姿を消します。ビルやマンションと違って月島の街には、いっぱい抜け道があるんです。








【追悼】極私的「昭和世代論」   2008年10月15日


私事にわたる話で恐縮ですが、敬愛する叔父が82歳でこの世を去りました。亡くなる半年前まで、現役の医師として仕事を続けていました。10年前に亡くなった私の父とは4歳違いの弟でした。
本人の遺志で葬儀らしい葬儀はせず、家族と親類だけが見送りました。


我々の両親世代はだいたい大正ふた桁から昭和ひと桁生まれが大半でしょう。そうした人たちを我々が看取る時代になってきました。ひとつの世代が終焉を迎えているように思えてなりません。
自分の父親や叔父の生き様だけを見て、その世代の人たちの考えを読むというのは、あまりにも乱暴な話ではあるのですが、このごろの世代論がともすれば戦後生まれの団塊世代やその子供世代だけにスポットライトを当てている感があるので、消え逝く世代のことを語るのも子世代としての役割であるかもしれないと感じます。少し長い話になるかもしれませんが、おつきあいください。


80歳を超えたこの世代、「昭和第一世代」とでも呼べばいいのでしょうか、その最大の体験は、やはり「戦争」でしょう。
死や飢餓といった肉体的生命の危機を実体験もしくは非常に身近に感じたことがある人たちは、もはやこの世代以外には日本には存在しません。
しかも戦争は思想や信条といった価値観が一夜にして激変する状況をもたらしました。
昨日まで正しいとされた考えが翌日には悪とされる社会的価値観の崩壊を、この人たちは目の当たりにしてきたのです。いわば精神的生命の危機も体験しているのです。
多感な15~25歳ごろに戦争と敗戦を迎えたこの世代が受けた衝撃は、どれほどのものだったのでしょう。この心身両面にかかわる衝撃的体験が、その後の彼ら彼女らの生き方に大きな影響を与えたことは想像に難くありません。


社会の中核を担う年齢に達した頃、この世代は政治的闘争に出くわします。60年安保、大学紛争などです。68~71年の大学紛争では自分の子供たちがその渦中にあった親も多かったはずです。私の父も大正12年生まれ、僕が大学生になった年に父は45歳でした。
概ね、この世代は政治闘争や理論闘争に関しては冷静、いやむしろ冷淡だったように感じます。
自分たちが敗戦前後で経験した価値観の崩壊・新生=革命に比べて、たかが学生がぎゃあぎゃあ騒いでいる程度の抗争では革命など起きはしないことなど、わかりきっていたでしょうし、実態を伴わない価値観を巡る論争など腹の足しにもならないと感じていたでしょう。
価値観の転換に要するエネルギーや犠牲がどれほどのものであるか、そして変動がもたらす影響がどれほど大きいものであるかを見知っている人間にとっては、安保も大学紛争も真剣ではなく竹刀による戦いにしか見えなかったでしょう。思想信条や政治理念といった「観念」に対して距離を置く姿勢は、観念が状況によっては非常に脆いものであることを、敗戦時の激動でいやというほど感じていたからではないでしょうか。
一方で、観念や信条に対する淡白さに比べると、「仕事」というものへの関心は高かったように思えます。抽象的な観念には頼れないとするならば、より具体的な結果や成果をもたらしてくれる「仕事」は「確かな手触り」として、この世代の拠り所であったのかもしれません。努力すれば生活が向上するという高度成長下の正比例関係が、この世代のモチベーションを支えたと言われますが、モチベーションというよりは「一夜にして壊れるような観念は信用できない」という意識が、家電・クルマ・家といった確かな存在感を持つものへ彼らを誘ったのではないかと感じます。そしてそれらを入手する手段として、仕事への精励を喜んで受け入れたのでしょう。昨今のIT長者のように泡銭で株価という観念上の価値を手に入れるのではなく、仕事で稼いだ金で土地や建物や預貯金を増やすことに熱心だったのは、「確かな手触り」に対する渇望が意識下にあったのです。


非観念と現実主義。それが若くして戦争を体験した世代に底流する感覚ではなかったか、と私は感じます。
私の父は学生時代、裁判官を志していたと叔父から聞きました。しかし、敗戦後の就職難で志望はかなわず、銀行員になりました。観念と実業、理想と現実、その乖離はかなり大きかったはずです。父は晩年ずっと「聞け、わだつみの声」を読んでいました。
癌で余命半年と宣告されるまで医師を続け、戒名のない墓石を自分で建てて家族葬で旅立った叔父。広島・長崎の原爆被害をリアルタイムに知りながら、放射線科の医師を目指したのはなぜだったのでしょう。
父や叔父が戦争について、戦後の生活について語ることはほとんどありませんでした。
寡黙であった分だけ、抱え込んだ思いは重たかったのかもしれません。
父にせよ、叔父にせよ、私は彼らがこの世にいなくなってからようやく、この人たちは何を感じながら人生を歩んだんだろうと考えるようになりました。親不孝・叔父不孝なことです。語るべきこと、語りたいことはあったはず。語りにくい思いの重さに気付かなかった自分に後悔しています。


無宗教葬を望んだ叔父ですから、法事などもありません。
でも思い立った時には、叔父を知るいとこ達で集まって話をしようと思います。
我々の親世代である「昭和第一世代」が何を考え、どう行動していたのかを憶えておき、それを次の世代へ伝えることが「昭和後期世代」である我々の役目でもあるからです。
父や叔父はあの世から「お前らにわかるはずないやろ」と言いそうですが。


「ネコ日記」には似つかわしくないテーマで長々と書いてしまいました。
おつきあいいただき、ありがとうございました。



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更新日 2020-04-26 | 作成日 2020-04-26